日本に住んでいると、自分がプロテスタントのクリスチャンであるということに疲れてしまう人も多いのではないだろうか? キリスト教信徒の圧倒的な数の少なさや、信仰を持つことでの家族や親戚、友人関係の悩みなど。テレビを付けてみても、放送されるのは私たちの信仰とは無関係な番組が多く、見ていると精神的に疲れてしまう内容がほとんどであるように思える。街を歩いてみてもすれ違うのは信仰を持たない人たち。洗礼を受けて二十年になる私などは外に出る機会なども信仰する年が伸びるごとに段々と減ってしまっている気がする。この誘惑が多い日本の土地を歩いていると何故か不思議なことに鬱っぽくなることがあるのだ。
これは何故なのだろうか? 日本の土地が自分とは合っていないのかも知れないし、やはり本当の仲間とは呼べない不特定多数の日本の人たちと会うというのは自分の知らないところで重荷となっているのかも知れない。
それは教会に行けば解決できる。私たちの主であるイエス・キリストに祈るという同じ目的を持った聖徒たちに出会えることができるというのは、やはりクリスチャンにとっては喜ばしいことだ。共に神に祈り、賛美し、牧師さんの説教を聞く。そして信仰を保ち、主より許され、いつの日か救われて楽園に赴くという希望を持つことができる教会とは唯一、私たちが心を許せる憩いの場所であるのだろう。
しかし祈りを済ませ、まるで夢であったかのような世界を経験したあと、一歩教会の外に出てみれば、冷たい現実に引き戻される感覚に包まれる。これは罪を犯したアダムとエバが楽園から追放されて、地上の世界に移住してきた時の感覚と似ているのかも知れない。教会で兄弟姉妹と共に祈ったあの尊い時間とは一体何だったのであろう? 主イエスと共にいたかのようなあの空間はなんだったのか……。
もしかしたら私たちの目には見えない何か。身体的な五感によっては推し量ることのできない何かがこの一瞬でこの身に起こったのかも知れない。きっとここは第六感である霊感に頼ってみると良いのだろう。霊感というと語弊があるかも知れないが、ここではクリスチャンが持つ霊性(スピリチュアリティ)に側面を向けてみようかと思う。ここでいう霊性とはクリスチャンが長い信仰生活によってのみ培われる能力のことである。聖霊を通じて主と対話することのできるような能力のことだ。
これを主イエス・キリストは自由に使いこなすことができた。「霊」の力を借りて弟子や民衆の前で奇跡を行ったり、ご自分の御父と対話のようなものをなされていた。この「霊」の力を幼いころから主イエスは磨いていたと容易に推測できる。深い内面で御父に祈ることによって霊的な力は磨かれる。あるいは荒れ野での試練によって、その能力を大幅に伸ばし得たのかも知れない。ともかく、その目には見えない力があったから、サタンと戦う力が備わっていたし、悪霊などを追い出すこともできた。病気を癒したりするような奇跡の力が行えたのもこの力のおかげだろう。
これは私たち一介のクリスチャンも決して無関係とは言えない。内面で深く主に向かって祈ることにより霊的能力が開花し、目には見えない「霊」の事柄が判断できるようになるのだ。それには長い信仰の年月が必要で、ある種の聖霊体験をしたり、数々の試練を受けることによってその力を伸ばすことができる。
これを霊性が上がると表現しておくが、このことが霊的宗教であるキリスト教を理解するのに最も必要なことだと思う。
これによって「霊」から様々な知恵が生まれ、この誘惑が多い世界を切り抜けることができる力が備わっていくのだ。いきなり「霊」の話をして困惑した読者もおられることだろうが、主イエス・キリストが最も大切にしていたのがこの「霊」の力であって、この能力によって神の教えを広める伝道というものを可能にしていたのだろう。